庭の柿の子たちを、今年も干しました。まだたわわに実ってるのだけれど、ちょいと億劫で、手の届くあたりの実だけ。

ヘタはT字に残して、皮をむいて、麻紐にひっかけて、熱湯にくぐらせて。雨が当たらない、風通しの良いところで、ひと月ほど干します。

1週間ほどたったところ。色濃く、そして柔らかくなってきました。


そして、柿とともに秋のめぐみのひとつ、栗。
去年、親戚からいただいた栗が冷凍庫に入れたままになっていたので、はじめて栗の渋皮煮をつくりました。

そこで、うまれた違和感。

単調な割に手間がかかりすぎるから、「労力をかけた美味しさ」を押し付けたくなってしまうというべきか…自分で自分に「なんて美味しいんだろうって、感極まって食べて」と呪いをかけてる気分になるのです。いや、ふつうに美味しいのですけれど…。

なんでもかんでも、自分で作ってみるのは好きです。その「好き」を支えているのは、わたしの場合、ものごとの成り立ちや構成を知りたいっていう好奇心。だから、「手間暇かけて」「スローライフ」みたいな思想とは、アウトプットが似通っていても、育った土壌が違うんだろうと気づきました。


渋皮煮づくりと干し柿づくりの、何がそんなに違うかいうと、時間の力がかかっているかいないか。同じように「渋」を、人間が美味しく感じられるように手を加える過程で、人の手だけで完結する渋皮煮に対して、干し柿は時間をかけて、人だけではない「手間」を介在させています。そのわかりそうでわからない力が起こす化学変化に、わたしの好奇心はくすぐられているのです。

来年からは、渋皮煮は誰かに作ってもらうことにして、わたしはお礼に干し柿を贈るような関係をつくれたらいいなあ。