日がどんどんと短くなってゆくとともに、涙もろくなっている今日この頃。大波も小波も絶え間無くうちよせてきて、こころの糸がびゅんびゅんと震えています。

直近で泣いてしまったのは、六本木の泉屋博古館(せんおくはっこかん)の展示「典雅と奇想」を見て。とくに、八大山人という清の時代の画家が描いた安晩帖・蓮図の前で。

安晩帖 第8図 蓮図 八大山人

いま振り返ると、あの時しとしと涙ぐんだ理由は「たからものは、ほんとうに、あるんだ」という安心だったと思います。
わたしは中国に詳しくなく、水墨画もよくわからないけれど、画家が愛しさを力いっぱいに込めて、彼のみのまわりのたからものを、ちいさな紙に閉じ込めたことだけは、耳をつんざきそうなほどにわかりました。
筆筋をなぞるほどに、頭のうしろでその宝ものの息づかいを感じました。色はなくても見えなくてもそこに光はあって、わたしの中に入ればたちまち、色もかたちも音さえも…。

少し前に、インターメディアテクで見たキュー植物園の展示も、やはり目が落ちそうなほどに奪われました。

「たからもの。それは、わたしたちのこころをふるわせ、とまどわせ、そして愛さずにはいられないもの。」

わたしたちは、「カルチャー」というものに生き生かされています。それは、わたしはわたしの人生しか体験できないという苦しみのなかで、場所も時代も異なる他人の、愛しい「たからもの」をみせてもらうことではないかと思います。