「うちには、茶渋をとってくれる妖精がいる」という話をしたら、いろいろな方面から個性的な「妖精」の目撃情報が耳に入ってきた。

ここで言う「妖精」とは、ちいさな喜びを贈る活動を、生活の中でこっそりと行う人のこと。
たとえば、朝起きて身だしなみを整えようとしたら鏡がピカピカに磨かれていたり、見て見ぬ振りをしていた菜箸の黒カビが落ちていたり、そういった些細なしあわせを味わった時。そのしあわせは、妖精のしわざなのだ。

わたしは2人暮らしなので、自然と「家庭内の妖精=パートナー」となり、ありがとうを伝えやすいのだが、パートナーに聞いてみると、どうやら感謝されたい欲からの行動ではないそう。サプライズでもない。一番しっくりくる言葉は「いたずら心」だと。


いたずらだから、こっそりと相手に姿を見られないように。
いたずらだから、相手がそのしわざに気づいた時を想像して、にまにましてしまう。
いたずらだから、相手が気づかないと、なんとなくつまらない。


思うに、いたずら(悪戯)というからには、悪ふざけなのだけれど、その根っこに「親切」があると、それは喜びがギフトとして派生する「妖精のいたずら」になるのではないか。

そして、「相手が気づかないと、なんとなくつまらない」という視点は大切。つまり、妖精と心地よい関係を築くためには「気づき続けること」がポイントなのでははないか。

少し視野を広げてみよう。家族の中から、友人知人、そして仕事仲間へ。もしかしたらその中に妖精がいるかもしれない。いや、いるはずだ。もっと視野を広げて、街の中へ。きっとその中にも妖精がいるはずだ。
そして、注意深く、解像度をあげて、妖精のいたずらの痕跡を見つけ出してゆこう。

妖精とは本来、西洋で古くから語り継がれた、自然物の精霊のこと。いろいろな説があるけれど、かつて、妖精の存在は、思うままにならない自然と折り合いをつけるための解決策なのかもしれない。
けれど、今この時代に「妖精はいる」と信じることは、人の親切心を信じるということ、そして人に絶望しないということだと、わたしは思う。


最近、いちばん笑った「妖精のいたずら」が、こちら。

わたしがホットカーペットの上で寝ないようにと仕込まれたいたずら。
こんなくだらないことでも、ちょっとしたことでも、家庭運営にはちっとも必要ないことでも、日常を輝かせるには十分すぎる。そして、妖精を信じる心そのものも、光だ。

どうか、絶望の淵にいる人に「妖精のいたずら」が届きますように。そしてもう一度、人の親切を信じ、心に光を持てますように。


みなさん、妖精を信じていますか?
そして、最近「妖精のいたずら」してますか?