Gallery 916がクローズする」と知ったのは、年明けてすぐの頃。

行ったことはないけれど、600㎡もの巨大なスペースで「写真」を「体験」できると噂に高く、その空間を身体で知らないのは惜しい気がして、閉廊前の最後の展示「Forest 印象と記憶 1989-2017」へ足を運んだ。

火曜日。スーツ姿の人がごった返すJR浜松町駅から、たったの5分でたどり着くその無機質なハコは、Gallery 916主催者でもある写真家・上田義彦さんが、約30年間撮り続けてきた「生けるものの原初の摂理を現す森の姿」で満たされていました。革靴の下は輝くモルタル床のはずなのに、やわらかな腐葉土を踏みしめながら森をそぞろ歩きしているよう。

「もっと早く来ればよかった」
「なくなるなんて勿体ない」
「がんばって続けてほしい」

それが素朴なファーストインプレッション。ですが、このザラザラした気持ちには身に覚えが。

近所の歴史深い銭湯が廃業したとき。
憧れのレトロ喫茶店が閉店するとSNSで知ったとき。
学生の胃袋を支えていた中華屋にクローズの張り紙が貼られていたとき。

そんなとき、決まってわたしは「もっと早く来ればよかった」「なくなるなんて勿体ない」「がんばって続けてほしい」と思わずにはいられない。けれど、決して口には出さない。そして、そういった場所の共通点は【たまに足を運んでいた/閉じると知り急いで駆けつけた】先であるということ。

当事者でもなく、片足でさえ突っ込んでいない、無責任な感情。何かを惜しむことは誰にだってできることで、悪気はなくても勝手な期待の押し付けであり、ほんとうにその場が必要であれば、もっとずっと前に「一歩先」へ深く踏み込まなければいけない。

きっとこの気持ちのザラザラは、やるせなさの矛先が見つからない、いえ寧ろ、自分へと向かうからなのかもしれない。

Gallery 916の閉廊に際して、上田義彦さんにパートナー・桐島かれんさんがインタビュー(前編後編)をされています。合わせてご覧ください。

Forest 印象と記憶 1989-2017」展は、Gallery 916にて3月25日(sun)までです。