沈没家族』というドキュメンタリー映画が公開中です。

時はバブル経済崩壊後の1995年。地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災が起き、世相がドンドンと暗くなる中、東京は東中野の街の片隅で、とある試みが始まりました。シングルマザーの加納穂子が始めた共同保育「沈没家族」です。ここに集まった保育人たちが一緒に子どもたちの面倒を見ながら共同生活をしていました。そこで育ったボク(監督:加納土)が「ウチってちょっとヘンじゃないかな?」とようやく気づいたのは9歳の頃。やがて大学生になってあらためて思ったのです。
ボクが育った「沈没家族」とは何だったのか、“家族”とは何なのかと。当時の保育人たちや一緒に生活した人たちを辿りつつ、母の想い、そして不在だった父の姿を追いかけて、“家族のカタチ”を見つめなおしてゆきます。
---『沈没家族 劇場版』HPより抜粋

前置きをすると、これから続くblogでは映画についての解説ではなく、あくまでも『沈没家族』を見てわたしが感じたこと(私的な思い出が大部分/住宅設計者視点寄り)を綴ります。映画について知りたい方は、ごめんなさい、他の方のblogへ。ですが、このblogを読んで沈没家族が気になった方は、ぜひぜひ見に行ってほしい。そして、何を感じ、伝えずにはいられないか、あーだこーだと交換できたらうれしいです…!


沈没家族との出会い

わたしが『沈没家族』を見たのは2回。

というのもこの映画は、加納土監督が武蔵大学在学中の卒業制作作品として発表したことがはじまりという経緯があり、昨年『沈没家族【卒業制作版】』、先日『沈没家族【劇場版】』を見たのだ。

ですが、沈没家族とわたしの出会いはもっと前。11年前のこと。

当時、住居学科の4年生だったわたしは、土監督と同じように卒業制作に取り組んでいた。その下調べで、「10年くらい前、沈没家族という名で共同保育をして生活していた人たちがいた」と知って衝撃を受けたのだった。

まだ「シェア」という単語が、今のように力を持っていなかった2008年ごろ。人と人とが生きてゆくかたちとして、かつて存在したらしい沈没家族はキラキラ光って見えた。そして、その「家族」はどんな家で生活を実践していたのか…、そこに大学4年間の集大成として未来への提案を投げかけるにあたっての答えがあると感じていた。

そして、いろいろ調べてはみたのだがぼんやりとした概要にしかたどり着けず、中途半端に諦め、それでも大きく影響を受けた卒業制作を提出し、大学を卒業したのだった。沈没家族へたどり着くことを諦めてしまったことには悔いは残っているが、卒業制作自体は、荒唐無稽でも満足度の高いのもになった。


卒業制作「家出していた家」

わたしの提案は、郊外住宅地の森の中に「機能空間」がぶらさがっていて、そのあたりが「家」であり、そのあたりに集ってともに暮らす人たちが「家族」であるというものだった。

イメージスケッチ
当時考えていたこと
パース
模型

「どうして敷地が郊外住宅地なのか?都市で提案すべきではないか?」と指摘を受けたことをよく覚えている。わたしは「都市にはすでにある。それに1人では生きられないひとが残されてゆく郊外にこそ、こういった共同体のキッカケになる場所が必要なんだ」と反論。そして、「こういった共同体には余白が大切だから、森っぽいところにつくった方がいい」とも言っていた。そしてなんとなく、森・林・木の境界が曖昧なように、社会・家族(家)・人の境界もぼやかしたいとも考えていたと思う。

映画『沈没家族』の中では、当時の生活の様子を写真としてたくさん見ることができるが、印象深かったのは屋上の存在。「そうか、森じゃなくて屋上だったんだ〜」と!

社会的養護・家庭的養護に関わる人々を紹介するWEBマガジン・Enlight(エンライト)で掲載されている、土監督と沈没家族メンバーであった高橋ライチさん(映画にも出演)の対談。こちらのでも、屋上やその間取りについて触れられている。
▶︎「沈没家族」が与えてくれたもの 〜共同保育を体験して〜【前編】
▶︎「沈没家族」が与えてくれたもの 〜共同保育を体験して〜【後編】

ライチさん:最初にホコちゃんと土が住んでいたアパートは、会議などで保育者がたくさん来るとぎゅうぎゅうにひしめきあっていました。なので、わたしも間もなく引っ越すから、もう少し広いところで一緒に共同保育をやろうよと、ホコちゃんを誘ったんです。でも最初は断られてしまいました。「シングルマザー2組で住んじゃうと、それで足りてしまい、広がりが少なくなる気がする」と言うのが理由でした。
とはいえ引っ越しは考えたいと言うことだったので、一緒に不動産屋を回ることにしたんです。そしたら何軒目かで5LDKの物件を紹介されて。それがあのマンションです。
「5部屋あるからほかの人も誘って、母子2組以上で暮らせば広がりが少なくなることもないし」と説得を始めたあたりでホコちゃんもかなり気持ちが傾いていたのですが、極めつけは広い屋上でした。昇ってみたら、見晴らしが良くて。物件との出会いが、5世帯での共同生活の始まりでした。
---対談より抜粋

公式パンフレットに掲載されいる当時の屋上の写真

この対談からは、「よき住宅設計者たれ」という、大きな励ましをもらった。
建築のフィールドワークや実務を重ねてゆくと、「建物を向かいあわせれば、人も向かいあう」わけではないことに、否応無く気づかされる。それでも、空間と生活は「=」ではないが「≠」でもないと信じ、励まし、学び、図面を引いてゆくことが住宅設計者の仕事だ。


篠原聡子先生と矢来町テラス

『沈没家族』を見て呼び起こされた学生時代の記憶には、もうひとつ、「矢来町テラス」のことがある。

大学を無事に卒業して大学院に進学したわたしは、篠原聡子研究室の門をくぐった。篠原先生は、建築家そして研究者として、「集まって住む」ことの中でも特に「単身者居住」の第一人者。研究室のプロジェクトとして、さまざまな集まって住むかたちのフィールドワークに同行して、好奇心が満たされる日々を送った。

篠原先生の著作の一冊(表紙に映っているのは10年前のわたし…!)

しかし、そんなプロジェクト以上に刺激的だったのは、篠原先生の自宅「矢来町テラス」での日々。「矢来町テラス」には、1階に先生が主催する設計事務所のオフィス、2・3階に家族のスペース、4階にはオープンキッチンがあるガラス張りのワンルームと見晴らしのよい広い屋上(ここにも!)があった。わたしたち学生は、たいてい1階か4階へ出入りしていたが、行くたびにいつも知らない人がいた。とにかく様々な人が出入りしていた。それに家族のスペースといっても、「家族」の境界は曖昧で、先生の親族やその子どもはもちろん、学生が生活していたりもした。

篠原先生は建築家/研究者としてだけではなく、「集まって住む」ことの実践者でもあったのだ。おそらく意思を持って、そういった生活を選ばれていた。わたしたちはあの大学院の2年間、家族であったと思う。

数少ない矢来町テラスでの写真

沈没家族の真ん中には「保育」が置かれていた。矢来町テラスの真ん中に置かれていたものは「研究」だったと思う。保育と研究に関係はなさそうだが、どちらも1人ではできないものであり、時を越えて引き継ぎ受け継ぐものである。そして、それぞれには加納穂子さんと篠原聡子先生という大きな旗をふる人がいたのだ。


沈没家族とわたしの「家族」

「沈没家族には、答えはない」。11年前の沈没家族に夢を託していた自分に、『沈没家族』を見た今、そう伝えたい。家族には答えなんてなくてなくていい。ただ、その時々に「ぴったりくるかんじ」はあって、それを追い求めてゆく共同体が家族だと、わたしは思う。それは、いつまでたっても現状を受け入れないことや、ここではないどこかをいつも夢想することでもなく、ただ少し先の未来や奇跡や相手を信じることに喜びをもつ…祈りのようなこと。

わたしの今の「家族」と「家」の話をしよう。夫と今の家に暮らし初めて6年目で、育てているメダカや植物がたくさん。2人とも家を仕事場としているので、一緒の空間にいる時間が長い。すると、息がつまる。なので、同居を始めた頃から、わたしは風通しをよくすることを意識してきた。

こまめに片付ける、友人と食卓を囲む、家でイベントを開く、家事は一緒にやる(分担ではなく)、、、など。2回目の『沈没家族』は夫と一緒に見た。今は夫の仕事を手伝ってくれるスタッフのTさんが定期的に来てくれることが、とてもよい風を吹かせてくれている。

家には3つの部屋と水回り(台所・浴室・トイレ)がある。廊下と玄関はない。部屋にはそれぞれ「くつろぐ」「何でもない」「働く」というはたらきがあって、それぞれに公私の質が異なる。そして、(屋上でも森でもなく)庭がある。その庭を介して、大家さんやお隣に住む方々との交流が生まれている。

『沈没家族』を見て、なんて穂子さんはかっこいいんだろう、なんて篠原先生はすごいんだろう、と思った。嫉妬心がゼロであったとは言えない。でも、わたしにはあのような「家族」がつくれないからスケールが小さい、ということではないのだ。わたしにはわたしなりの旗があって、そこに集う家族がいればいい。

それはどんな旗なんだろう。

まだぼんやりとしたその旗をつかむために、わたしは『沈没家族』を見た人と、それぞれの家族について語り合いたいと思う。

そして、これから多くの家族のために家を設計する。その際、どんな旗のもとに集う家族であっても、そのあり様を受け止める勇気を。(そう、勇気が必要なのだ!)その旗印に希望が灯すことができる家をつくってゆきたい。

「ささやかに、大胆に!」