三品輝起さんの連載『雑貨の終わり』(WEB「考える人」)で文才に唸るという経験をし、旅先の本屋さんで数年前に出版された著書を購入しました。

自身も雑貨屋を営む三品さんが、雑貨とはなにかを考えたエッセイ…と言えばいいものか。

「雑貨」という切り口で鮮やかに社会をとらえてゆく様子は、寂しさを超えた一種の甘美さをたたえ、久しぶりにRCサクセションの「山のふもとで犬と暮らしている」を思い出したりしました。

決して雑貨屋になりたいひと向けの本ではなく、じゃあ誰にどうしてオススメしたいかというと「とにかくすばらしいので読んでみて」という嘘くさい言葉しか出てこないような、紹介することが難しい本。

読み進めてゆくうちに、知らず知らずと引き込まれ(章によっては涙が出る類の引力)、霞のようなはっきりとしない手応えと知恵熱とともに現実へ帰ってくるような。

帰ってきてしまったことに気づき、慌てて出てきた単語を調べるなどして、この知性を自分のものとしようとしても、砂のように手のひらからこぼれてゆくような。

先ほどRCサクセションの名曲をあげたけれど、読了感はフィッシュマンズの音楽に似ていると思う。

エッセイの中で『ムーミン谷の十一月』に触れる箇所があります。

つづく、私がもっとも好きな最終巻『ムーミン谷の十一月』にいたっては、ムーミンたちはいっさいでてこない。まるで喪に服したような空気に谷は満たされている。美しい秋の深まりの中で、一家が不在であるがゆえに姿をみせた、人と人とをつなぐ霞のような紐帯の存在をトーベはとらえている。だがけっきょく、奇人達は少しだけ心をかよわせたあと、すれちがい、またばらばらになっていく。やがて谷は冬をむかえ、物語は終わる。

わたしもこの巻がいちばん好きだからという安易な理由もあって、ムーミン・サーガの終わりの、この的確な表現が印象深い。「霞のような紐帯」は小説の外にはないのだけれど、それでも、どうしても、夢見てしまうもの。それがたとえ物語から遠く離れたキャラクターとしての認識だとしても、ムーミン谷の世界が多くの人を魅了する理由なのではないかと思う。

とても雑貨的な存在たちの根底に流れる、秋の感覚。

西荻窪にある三品さんのお店には、2度お邪魔したことがあります。友人を介して知り合った作家さんがそちらで個展をされたのがきっかけ。お店の片隅で開かれていた個展をたっぷり味わい、これだけ長居したのだからお店でも何か買わなければ…と焦って、大きさも値ごろも適当だった陶器のちいさな人形を買った。翌年も同じ作家さんの個展があり、また同じように陶器の人形を買った。

その次の冬にわたしは初めてガレット・デ・ロワなるフランスのホームメイドパイを食べた。そして、わたしが三品さんのおみせで買った陶器の人形は「フェーブ」という、ガレット・デ・ロワの中に仕込まれる「しあわせを運んできてくれる置物」だったということを知ったのです。

わたしがお金で買ったフェーブは、ガレット・デ・ロワひとかけよりも高かったことに気づき、本棚の片隅で埃をかぶっていたフェーブを拭いて、机の上の光があたる場所へと移した。


WEB「考える人」での連載は、書籍化される予定だそう。それまでわたしはこの霞をまとったまま生きていられるかどうか。

【すべての雑貨/三品輝起】